年齢にとらわれずに生きる、その潔い生き方の根底にあるもの
1978年、17才の時にカネボウ化粧品のキャンペーンガールで瞬く間に芸能界のトップへと躍り出た服部真湖さん。その後は活躍の場をアメリカをはじめとした海外にも広げられました。そして、子育ての時期にはいったん日本に戻られていましたが、現在は日米を行き来されているそうです。62歳の現在、活動の領域は芸能界ばかりでなく、日本舞踊での国際交流などと幅広く活躍されている服部さんに、当協会代表理事・増田成衛がシニアライフをテーマにお話を伺いました。
ベースになったお母さんの存在
まずはじめに、服部さんのご経歴からお教えください。
私は、日本橋浜町育ちでして、明治座が近くにありました。
明治座の当時の部長さんと母が懇意にしておりまして、中学校のころは学校帰りに、大川橋蔵さんやその他の方の公演をよく観に寄っていました。そうこうしておりましたら、大川橋蔵さんの事務所の社長さんからお声がかかり、ボイストレーニングや日本語のトレーニングを受けられることになりました。とはいえ、特に芸能界に興味があったわけではありません。
また、母の影響で6才の6月6日から日本舞踊を習っていました。三味線など和モノと馴染みが深かったので、洋モノへの憧れがあって、フラメンコや社交ダンス、タップも習っていました。フラメンコとタップは、中川三郎先生のところまで習いに行っていました。
モデルになられたきっかけはどのようなことだったのですか。
私は母子家庭で育ちました。母が働いて私と弟を育てる姿を見ていて、早く母を手伝いたいと思っておりました。勉強も得意ではなかったので、心の中で中学を卒業したら働こうと思っていました。
中川三郎先生の次女の方が、モデル事務所の経営をされており、私のことをよく見ていたので、その方から「中学を出て働くなら、モデルになれば。」と勧められました。中卒で働いてもそれほど稼げないだろうなと思っていたのですが、「モデルになれば、仕事は歩合制で、頑張っただけ稼げる。」というお話を聞き、年齢も学歴も関係なく稼げそうだと確信しました。それで、15才でモデルになりました。
初めて手にしたお給料は3万5千円で、それは全部、母に渡しました。当時の金額で3万5千円は給料としてはかなり良い金額だったんです。事務所の方から「マコちゃん、これからどんどん収入が増えていくよ。」と言われ、年齢も学歴も関係ないんだなと実感しました。
お母さまを助けたいというお気持ちが強かったんですね。お母さまとの関係はどのような感じだったのですか。
母は教育方針がはっきりしていました。当時は皆が塾に行き始めて、私も行きたかったのですが、塾には行かせてもらえませんでした。学校で学べることに払うお金はないと言うんです。フラメンコや社交ダンスを習いたいと言うと、その時はお金が出てくるんです。
また、母は、子どもに対して、自分で考えて責任がとれれば何にでもチャレンジしていいという考え方でした。ですから、私は小さいときから、何でも自分で考えて選択してきました。
母は、戦時中育ちで勉強する機会が少なかったのですが、自立して生きてきた人で、凛としていました。
母と接する時間こそ少なかったのですが、二言三言交わす会話がきちんとしていて、母とは濃い時間を過ごしていました。
だから、私は母を悲しませたくない、母をがっかりさせたくない、きちんとしようと思っていました。周りの子どもたちとは違う環境で育ったのですが、別に人のことを羨ましいと思ったことはありませんでした。