今回ご紹介するのは、瀧内健治さん(70才)です。瀧内さんは、56才の時に防衛省でのキャリアを終えられ、シニアとなってからも充実したキャリアを積み重ねていらっしゃいます。瀧内さんに、ファーストキャリア、セカンドキャリアについて、また、現在(サードキャリア)について、お話をうかがいました。
ーまず始めに、防衛庁(現在の防衛省)に入られたきっかけをお聞かせください。
高校時代は茨城県の水戸第一高等学校で過ごし、剣道部に入っていました。当時学校から毎年2~3人は防衛大学校に進学しており、自分も防衛大学校に憧れを持ちました。その後、防衛大学校に合格したのですが、事情があり、結局、秋田大学の工学部に進みました。
秋田大学では大学院まで進み、一般企業に入るつもりでいました。ところが、自衛官募集ポスターで技術幹部候補生を募集しているのを見かけ、青春時代の思いがよみがえりました。それで、何がなんでもという気持ちで採用試験を受けました。全国で10人、北海道・東北エリアで3人だけの採用でしたが、その狭き門を通ることができました。
ー自衛隊ではどのようなお仕事されてきたのですか。
大学院の修士課程の時に、航空機の構造に関連したことを研究してきましたので、自衛隊の中でも航空自衛隊を選びました。技術研究本部で、無人機や戦闘機を開発する仕事に携わってきました
さらに、内部での試験(指揮幕僚課程)にも合格し、国家公務員の上級職相当の立場になりました。こちらも、防衛大学校と一般大学を卒業した自衛官500人が受験して、合格するのは40人程度という狭き門でした。
38才の時に、二等空佐として2年間アメリカに赴任し、空自用戦闘機F2開発に関わりました。戦闘機の日米共同開発という難しい局面でしたが、予算要求から戦闘機が出来上がるまでを経験しました。 42才から45~46才まで、山口県防府市にある教育隊に配置が変わりました。高校や大学を卒業して入隊してくる一般隊員の教育に関わる仕事の指揮官だったのですが、この仕事も水が合ったというか・・・。3か月間の教育期間で、若者たちが立派な自衛官へと成長し、巣立っていくのを目の当たりにしました。
その後、市ヶ谷の情報本部に配属され、課長を2回経験しました。さらに、静岡県で地方協力本部長を務めました。自衛官の募集、広報、退職した隊員の就職斡旋、音楽隊などを管轄する仕事でした。警察でいうと県警本部長と同格になる立場で、ここでも面白い経験をしました。こんな風に、防衛省では、いろいろな仕事をして、仕事に没頭してきました。
空将補まで昇進し、私の場合、定年が56才でした。
ー56才で定年とは・・・自衛官は定年が早いのですね。
そうですね。階級などによって違いがあるのですが、幹部の場合は50代後半が定年です。その代わり、人事管理が手厚く、再就職を世話する組織があります。
自分としては、次は技術開発の仕事がいいなと思っていたのですが、自衛官時代にいろいろな経験をしてきているということで、数学や物理を教える仕事を薦められました。具体的には、首都医校という医療系の専門学校が開設されることになっており、そこでの基礎教育講師です。物理や数学は専門ですが、直接教えることは経験したことがありませんでした。でも、持ち前のチャレンジ精神でやってみようと決めました。
ー首都医校ではどのようなお仕事をされていたのですか。
首都医校は、医師のもとで業務をおこなう医療従事者を育成する専門学校です。中でも、看護師の国家試験は10数科目あって、こんなに勉強するのだと感動を覚えました。
私は医学英語、医学物理、医学統計学、数学、放射線、公務員試験対策などを教えていました。医療系の知識がありませんから、私自身も必死で勉強しました。それ以外にも、試験問題を作ったり、採点したり、とにかく忙しかったです。
また、昼だけではなく夜間部も教えていたので、大変でした。昼間は若い人がほとんどなのですが、夜間部は40代、50代もざらにいます。60才で幼稚園の園長を定年退職した方が、看護師学科にいました。今は看護師になっていますが、その年齢で物理も勉強していて、すごいなと思いました。私が丁寧に教えることで理解できた時には、とても喜んでもらえました。こういう経験は、得難いものがあります。
首都医校では65才まで仕事をしていました。まだ残ることはできたのですが、辞めたのです。
ーなぜ、65才で首都医校を辞められたのですか。
いくつか理由があります。
統計学を教えるのに、作業療法学科、理学療法学科など学科ごとに勉強し直さなければならなかったのです。統計学に関する難しいことを新たに勉強することが、キツくなってきていました。
また、夜6時から9時までの夜間授業も、肉体的にキツくなってきていました。夜9時に仕事を終えて都心から離れた家に帰ると11時を過ぎていました。
剣道をやる時間もなくなっていましたし、毎年、何百人も学生をみるのもキツいなと感じていました。それで、退職することを決意しました。