井上冬彦さんは、神奈川県で「医療法人井上胃腸内科クリニック」を開業されている医師です。
井上さんのクリニックは、苦痛の少ない内視鏡検査とともに、かかりつけ医院としての内科一般医療を掲げています。井上さんは医師として、また、複数の医師やスタッフを抱えるクリニックの理事長・院長として忙しく過ごしておられます。
その一方で、32才でアフリカ・サバンナを訪れたのをきっかけに、動物を中心とした自然を被写体にした写真家としても活躍されています。 サバンナの動物たちの写真が飾られた、心癒されるクリニックをお訪ねし、医療のこと、写真のこと、“いのち”のことなどについておうかがいしました。

目次
カラダの不調は食べ物やストレスがもとになることが多いのです
医師を目指された経緯を教えください。
僕は、もともと赤面症で、人とコミュニケーションをとるのが苦手なので、医師には向いていないと思っていました。両親が医師で、素晴らしい仕事だということはわかっていましたが、怖かったのです。
小さい時から昆虫が好きで、自然科学の方に進みたいと思っていました。進路にはずいぶん迷いましたが、結局は逃げるのも嫌だったし、途中で進路を変えることもできるしと思い、医学部に進んでみようと考えました。
井上さんの目指す医療の特色はどのようなことですか。
症状に対して安易な対症療法はしないことを主眼にしています。
原因を知り、その根源に迫ることで、たとえ最初は対症療法的に薬を使わざるをえないにしても、やがては薬がやめられるようにすることを目標にしています。食事や運動だけで驚くほど多くの病気が薬なくして改善していくからです。それを指導するのが内科医の使命だと思っています。
また、専門の内視鏡検査も多くの所では病気の有無しか見ていません。私はその症状がなぜ出ているかを考えます。検査をしてもその症状に見合う病気が見つかることはむしろ少なく、その場合「異常ありません」で終わってはダメだと思うのです。
なぜ症状が出ているかを考え、説明するようにしています。
では、胃腸の不調はどのような原因で起きるとお考えですか。
もちろん目に見える癌とか炎症といった病気のこともあるのですが、むしろ食べ物とストレスが原因としてあげられることが多いと思っています。
特に、食べ物に着目しています。僕自身が小さい時からお腹が弱く、ガスが溜まりやすい体質で、つらい思いをしてきました。食事の摂り方については、自分の身体でこれまでいろいろ実験をしてみましたが「乳糖」や「オリゴ糖」などの糖が原因として大きい場合が多いと考えています。
健康ブームで様々な食品が取り上げられますが、僕はヨーグルトも納豆も、食べるとお腹が張ってしまう。オリーブオイルもだめです。実際、日本人には僕のような体質の人が少なくないのです。

え~、健康に良いと言われている食べ物が、胃腸の調子を崩す原因になるのですか。
日本人の7割から8割が乳糖不耐症だと言われています。
牛乳などを飲んでガスが溜まる状況では、異常発酵とともに小さな炎症を起こしているのです。そうすると、身体もだるいし、ブレインフォグ(脳に霧がかかったような)状態になります。
10年も20年も原因がわからずに苦しんでいた患者さんが、乳製品や小麦を極力控えるだけで改善することを診療の度に経験します。2週間でお腹の調子が良くなって、元気になって頭もすっきりして、痩せましたと言ってきます。身体に合った食事をすると、人生が変わるのです。
ご自身の胃腸が弱いからこそ、患者さんの立場に立った医療ができるのですね。
そうですね。自分のお腹が弱いことを武器にしています。
僕は食べ物が自分の体にどう影響与えるかについて分析し続けています。食事の分析を始めて30年経ちますが、これは僕が自分で考えながら、作り上げたやり方です。
数年前に欧米における過敏性腸症候群の治療として低フォドマップ食があることを知り、自分の考えが間違っていなかったことを実感しました。ただあれは欧米人向けのもの。僕は日本人向けにアレンジしたパンフレットを作り、患者さんを指導しています。
注)フォドマップ(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
フォドマップ(FODMAP)は小腸内で消化・吸収されにくい糖類(Fermentable:発酵性、Oligosaccharides:オリゴ糖、Disaccharides:二糖類、Monosaccharides:単糖類、Polyols:ポリオール)の略称である。
ストレスには運動、そしてものごとに対する「感動」がとても良いのです
食べ物で人生が変わるのですね。では、ストレスに対して良い方法はありますか。
僕自身すごく疲れたり落ち込んで自律神経が乱れてくると、長時間歩くようにしています。気分が落ち込んでいるときに、妻に山に連れて行かれたのがきっかけです。1日数時間のウォーキングを2~3日続けると抑鬱症状が消えていくことを何度も経験しました。走っても水泳でもダンスでも良いのです。
ストレスに良いのはリズミカルに体を同じペースで動かす運動です。この運動を続けていくと脳内のある種のホルモンが増え、気分が改善していくのです。
また、感動もストレスにもの凄くいい。特に自然の中で体を動かし、感動すれば最高のストレス対策になります。
自然の中での感動ですか。
僕にとっては感動体験が原点です。
ある時、サバンナで素晴らしい夕陽に出会い、そこにシマウマが来たのです。露出がどうとか構図がどうとか頭がコンピュータのように動いていたのですが、そのうち何も考えたくなくなっているのに気付きました。写真などどうでもよくなってきたのです。そして深い至福感に包まれていった。
後で分析したのですが、深い感動によって言語情報が抑制されて、右脳が優位な状態になり、その状態では深い至福感を感じることが分かったのです。しばらくして、言語情報が戻ってきて「撮れているだろうか」と考え始めるとその至福感も消えていく。その直前の、言葉がない、すべてが一つにつながった分け隔てのない世界。どうもこれが生命の本質”いのち“ではないか、と思い始めたのです。
命と”いのち”の違い
“いのち”についてもう少し詳しく聞かせてください。
人間は普段は左脳中心で生きています。そこには形があり、色があり、匂いがあり、あなたと私の区別がある。それが命の世界で、われわれの脳が創った世界観です。これは紛れもない現実です。
ところが、ミクロの世界では境がない。例えば、象が草を食べているとします。われわれには、象と草は別々に映るけれど、草は食べられた瞬間にゾウになっている。実はすべてがひとつで、関係性だけが変化していく。これが本質なのでしょう。
われわれは脳が創った世界観によってその本質とは違った世界観を生きるようになったのです。自我を確立させるために、すべてを『分ける』方向で世界を理解しようと進化してきたのです。
たしかに『分ける』ことは分析しやすくなる。科学は発達するのです。でも本質であるすべてが分け隔てのない一つの世界観からは遠ざかっていく。これが今の人間社会。だから、いじめも差別もなくならない。
我々の向かう方向性は、現実としての“命”と、非現実だが本質的な“いのち”の両者を生きていることを自覚し、一歩ずつでも“いのち”に近づいていくことだと思うようになりました。
そのためには、深い感動体験や他者のために生きることが大切になるのでしょう。実際はなかなか難しいですけどね。
そういう理由でアフリカ・サバンナに向かったのですか。
いえ、小さい時から動物が好きで、ずっと行ってみたいと思っていたのです。32才で初めて行って、そこから動物の写真を撮ることにハマっていき通い続けるようになりました。
アフリカ・サバンナと向き合う中で、医師として何か感じることはありますか。

命はつながっているということです。死は終わりでなく、他の命に変わっていくだけなのです。
そして、その中で動物たちは精一杯生き、そして他者の糧になっていく。つまり“いのち”そのものを生きているのです。
ところが人間は“命”を生きるようになり、そこから離れてしまった。そして、老病死の苦しみを抱えざるをえなくなった。
でも、悪いことばかりではありません。動物たちはサバンナの素晴らしい夕陽に感動することはありません。人間だけが感動する。これは“命”を生きる人間だからこそ味わえるものです。
“命”を生きる人間が、“いのち”を思い出し、そこに少しだけ近づいていくことが大切だと考えるようになりました。“命”と“いのち”について考えてもらうために「マイシャと精霊の木」(光村図書出版)という本を書きました。
この2年間のコロナ禍について、どのようにお考えですか。
コロナを極端に畏れる人と、コロナを気にしない人の両極に別れました。どちらも正しくないのです。うまくバランスをとるべきです。
家から出ないことで認知症が増えたり、生活習慣病が重くなったりということが起きました。受診を控える人が増え、一時期はクリニックの経営が大変だったこともありました。
でも、良い面もたくさんあります。例えば、飲み会がなくなったりとか、電車が混んでいなかったりとか。何か起きても、必ず良い面と悪い面と両方あるのです。ネガティブに捉えないで、どちらもありだなと柔軟に考えたほうがいい。生命の大原則は、常に変化することなのですから・・・・。
井上さんは何歳まで医師として働き続けるつもりですか。
身体が動く限り、働き続けようと思っています。
医師として働けるということは幸せだと思っています。頭が働くうちは車いすになっても働くつもりです。臨床医ができなくなっても理事長はできますし、当面は80才まで理事長を務めることを目指しています。
僕の人生は、自分だけの人生ではありません。患者さんだけでなく、スタッフや家族など多くのものを抱えているのです。でも、その大変さは幸せと表裏一体なのです。
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