66才でプロとしてキャリアをスタート

神山百合子さんは、ポートレート撮影などを仕事にされているフォトグラファーです。神山さんは現在70才。17年前にカメラと出会い、趣味で花や風景を撮り始め、プロとしてカメラを学んだのは65才の時だそうです。今は評判が評判を呼び、プロのフォトグラファーとして幅広く活躍されています。

神山さんに、これまでの人生や現在の生き方について、お話をおうかがいしました。

ーまず、これまでどのように過ごされてきたか、ご経歴をお聞かせください。

茨城県で生まれて11才まで、そこで過ごしました。父は大学病院の検査技師でした。母が子どもを残して家を出ていくという悲しい出来事がありました。心機一転し、母とやり直すために、父は群馬県の田舎の診療所に転職しました。家も売却し、父と私たち兄弟は親戚も知人もいない群馬県に移住しましたが、母が戻ることはありませんでした。生まれ故郷が恋しくて、18才まで枕を濡らすような、つらい思春期を送りました。

私は地元の高校を出て、保育専門学校に通い、保育士と幼稚園教諭の資格をとりました。専門学校を出た後1年間は、埼玉にある聖書を勉強する学校に通いました。専門学校に通っている時に、12才年上の牧師(現在の夫)になんと結婚を申し込まれたのです。その牧師は、私が幼いころから通っていたプロテスタントの教会に赴任してきた方で、何かと悩み事を相談していました。

でも、私にとっては恋愛対象ではありませんでした。いろいろありましたが、一旦結婚お断りしました。結婚を断られてショックを受けゲッソリしている彼の姿を見て、「もう神様に任せよう。」と思い、結婚を承諾しました。その3ヶ月後に21才で結婚したのですが、その間に主人に恋愛感情をもつようになっていました。人の気持ちとは不思議なものだと、つくづく感じました。

その後、夫の赴任地が宇都宮になり、それ以降49年間暮らしております。

ーご結婚が早かったのですね。プロフィールには大手証券会社に勤務されていたとありましたが・・・

23才で第1子を授かり、29才までに4人の母となりました。現在のように育児手当などの制度も充実していない上に、牧師の給料はとても安かったのです。当時大卒の初任給が14万円程に対し、牧師の給与は8万円で、生活するのが大変でした。また、そのころ、牧師という仕事は、妻も含め、教会の仕事以外に働くことは禁じられていましたので、公にアルバイトをすることもできませんでした。

それでも、2人目の子どもが生まれた後から、子どもの寝ている夜中の2時に起きて、子どもが起きる7時ごろまで、おにぎり工場でアルバイトをしていました。そんな生活をしておりましたら、3人目の子どもを妊娠している時に流産しそうになりました。それで、子どものために、アルバイトを辞めました。

4人目の出産後の32才の時に、いよいよ生活が苦しくなり、仕事を探しました。子どもを預けて働けるというので、就いた仕事が健康食品の販売員でした。でも、その仕事内容は強引な営業でした。それより何より、マネージャーの威圧的な態度に耐えられずに1ヶ月で辞めてしまいました。

健康食品の仕事をしている時に、生命保険会社で募集があるということを知り、その後、その会社に入りました。住まいのある宇都宮からバスで1時間もかかる場所での勤務でしたが、子どもが多いというので、遅刻や早退も構わないという条件でした。自転車で職域訪問の営業をして、2年半で98人のお客様を獲得しました。しかし、職場まで遠く、子どものことで休むことが多くなったため、結局、在籍3年を待たずに、保険会社を辞めました。

ーお仕事をされていく上で、ご苦労が多かったのですね。

それで、子どもを育てながら働きやすい職場を探したところ、証券会社で募集があり、33才の時に証券レディになりました。証券会社に入って5年程経ち、仕事が軌道に乗ったタイミングで、5人目の子どもを妊娠しました。自分の席がなくなるのではないかという不安はありましたが、子どもは神様から授かった大切な命だと考え、出産をしました。

臨月まで自転車で会社に通い、39才の12月24日に女の子を無事出産しました。長期休暇を取ると職場に迷惑がかかると思い、2ヶ月後に仕事に復帰しました。当時は0才児保育が一般的ではなく、0才から2才まで近所の方に預かってもらっていました。

「〇〇ちゃんは昼間泣かないので、手がかからなかったですよ。」と言われるのですが、家に帰ってくると子どもが毎日大泣きするのです。こんなに小さな子どもでも空気を読んで我慢しているのだなと思うと、とても切なかったことを、今でも鮮明に覚えています。

私は長い間、雨の日も風の日も、真夏でも、真冬の寒い日でも自転車で営業をしていました。仕事も軌道に乗り、生活にゆとりができて、51才の時に運転免許をとることができました。自転車に比べたら、なんと楽なんでしょう。今までの苦労が報われるようでした。

証券レディも株式を扱うようになり、そのための試験(第一種外務員試験)に合格し、61才まで28年間在籍することができました。

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