チャレンジを続ける若宮正子さん

マーチャンの原体験

マーチャンのベースにはどのような体験があるのでしょうか。まず、そこからお聞きしてみました。

ー銀行時代から現在に至るまで、一貫して好奇心にあふれ、躊躇せず飛び込む若宮さんですが、そのルーツはどこにあるのでしょうか?

私は、ごく普通のサラリーマン家庭で育ちました。

子ども時代は、今のウクライナのような状況の中で過ごしてきました。なまじっか学校でいろいろ言われるようなこともなく、放っておかれたのが良かったのかもしれません。

物心ついた時には戦争でした。「欲しがりません、勝つまでは」というような時代で、国がギスギスしていました。大人は子どもを飢えさせないように、死なせないようにということに必死でした。個々人がどうのこうのと取り上げられる余裕がなく、必死で生きていた時代でした。

ある意味で、いい時代に育ったと思います。焼野原からスタートし、これ以上悪くなることがなかったので、やけに明るかったのです。

その後に高度成長期がくるわけで、今より良かったかもしれません。

混沌とした時代の面白さもありました。

戦時下では教育どころではなかったのですが、終戦後に6・3制が導入され、中学まで義務教育化されました。新制中学の先生は人手が足りなくて、旧植⺠地から引き揚げてこられた学者のような方が先生になったりしました。錚々たるメンバーが先生で、文部省(当時)によるカリキュラムも整っておらず、自由な授業をやっていました。ですから、中学時代の授業はとても面白かったのです。サンフランシスコ講和条約の締結後はつまらなくなっていったのですが(笑)。

高校時代を過ごした東京教育大学付属高校は、やりたいことをやるというような自由な校風でした。友だちにも恵まれていました。いろいろなことをやって面白かったことを覚えています。

ー幼少期のことで、何か印象に残っていることはありますか。

戦時下では、親に育てられているという感覚がありませんでした。学童疎開で親と離れていても、特に寂しいと思わなかったです。当時はものすごい食糧不足で飢餓感を味わっていましたので、おにぎりの⽅が恋しいくらいでした。

焼夷弾が降ってきても、怖いという感覚もなく、死ぬということの意味もわかっていませんでした。

終戦後、小学校の5、6年生のころ、父親が私だけを連れて、映画館に行ったことがありました。映画を観ているときに、父親が私を膝にのせて「もう離さない」というふうに抱きしめました。学童疎開で子どもを手放して寂しかったのだと思います。今思うと父親の心情が理解できるのですが・・・・

戦争中は、皆な感情を押し殺して暮らしていたのだと思います。

ー終戦当時は、どのように過ごされていたのですか。

小学校4年生の時に、兵庫県で終戦を迎えました。父親の会社が会社ごと兵庫県の生野銀山に疎開しました。疎開先の近くに、捕虜収容所がありました。終戦を境に、捕虜だった人たちがパシッとした服装をし、ピカピカの靴を履いているのを目の当たりにしました。

一日で世の中が変わるということを経験しました。すべてがひっくり返ったのです。

ー玉音放送は聞かれましたか。

その日は夏休みで、豊岡市の親戚の家に遊びに行っていました。たまたまその日の朝、駅に「正午にラジオで重大放送があるので聞くように」という掲示が出ているのを見かけました。そのことを伯父に話すと、伯父は冷静に「戦争に負けたということを放送するのだろう。」と言っていました。

玉音放送の時、天皇陛下のお声は泣き声だったので「これはいいことではないのだな。」ということはわかりました。それで、急遽、家に帰ることになったのですが、そんな時でも汽車は普通に動いていました。家に帰ると、母は「戦争はどちらが勝ったの?」と言っていましたし、父は「戦争が終わった。」と言っていました。当時は終戦と言っても、敗戦とは言わなかったのです。

8月20日は、学校の登校日でしたが、壇上に上がった教頭先生は10分間くらい黙っておられました。それまで「鬼畜米英」と教えておられたわけですから、何も言えなくなったのだと思います。

アメリカの占領下で、アメリカ式の教育思想が持ち込まれました。それまでの教科書の内容のうち、戦後の思想に反するところは墨で塗りつぶすように指示されました。また、父母会はPTAと呼ばれるようになりました。

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