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人に喜ばれ、夫婦仲もよく、時には収入にも。シニアからの「書」は三得でした

人に喜ばれ、夫婦仲もよく、時には収入にも。
シニアからの「書」は三得でした(1)

永山玳潤(たいじゅん)先生

1971年大阪府高石市に生まれ、4歳で初めて筆を持つ。
22歳で雅号を取得。様々な邂逅を経て35歳の時に宮下寛昇氏に師事。その後書道家として本格的に活動を開始。


JRAの有馬記念やジャパンカップのロゴ、白鶴酒造CMやヒルトンプラザ大阪の新元号イベントなどで活躍される書道家の永山玳潤先生に、シニアからの書の意外な役立ちについて伺いました。それは、趣味という範囲を超えたものでした。

永山玳潤先生 「書」作品1-有馬記念の書

永山玳潤先生 「書」作品2

書はアタマの遊び。
アタマが柔らかくなってリラックスできる

「書って8割がた、遊びなんですよ」
玳潤先生は、ポンと言葉を放り出すように言われます。ではでは、その先を伺っていきましょう。

すみません、遊びとはどう意味でしょうか

空白の紙に文字を書くとき、まず全体のデッサンをします。空間のここには何を入れるか、どこに隙間を作るか、まあ、骨格作りですね。半紙は今高価なので、大学ノートでいいのです。そこに4Bくらいの濃い鉛筆で、レイアウトする。
その余白、バランスが難しいがそれが楽しい。アタマが柔らかくなりますよ。一種、アタマの遊びですね。

私なんか、デッサンするとき映画やTVをつけておく。音は出さずに、とくにスタジオジブリなどのものを流しておく。
何度も見ているものです。絵がゆっくり動いていくと、知っている内容ですからリラックスできる。

アタマが柔らかくなって、リラックスできる。これって、シニアにとってとてもいい事だと思います。そして、なにより基礎が大切です。基礎を学びながらの遊びですね。基礎ができていると応用も利きやすくなります。

先生はいつごろから書を始められたのですか

私は4歳から近くの書道教室に通っていました。左利きで苦労したおばあちゃんに、「教室に行って鉛筆の持ち方から習っといで!」と言われました。自身が左利きから右利きに矯正されたつらい経験があったので、「孫には最初から右利きになるように・・・」という願いがあったと後に語っていました。幼少期から教室で習った甲斐あって、字は褒められました。思えば、学生時代は金賞しかとっていない。

高校時代、書道はあまりやっていなくて剣道部に所属していました。そして、大学時代の時就職活動で履歴書に書ける特技をどうしようかと思い、書を習い直そうと思ったのです。幼少期からお世話になっていた松岡啓水先生に教わりなおし、免状もいただきました。

大学卒業後建築関係の会社に就職し、その後転職して食品関係の会社で働きました。その会社に在職中は苦労の連続でした。売上を上げても会社の方針と合わずに評価されない(結局、辞めるまでずっとそうでした)。その状況を打破しようと思い、自分らしさを取り戻すために30歳過ぎて書を再開しました。しかし、いざ始めようと思っても何を書いていいのかまったくわかりませんでした。

人を感動させるってどう書くの、おもしろく書くってなに、と悩みました。そこで、啓水先生のところに伺うと、「基礎はできているのだから、自分で研究してがんばりなさい」と言われました。

困った。いろいろな本を見ているうちに、『書輪』(たる出版) に出合ったのです。これが素晴らしい本で、目から鱗でした。一生懸命独学で勉強し、いろいろ工夫しながら一本の掛け軸を書きあげました。そして、その頃に啓水先生が亡くなられたのです。書き終えたのに、それを見ていただける方がいない。悲しかった。寂しかった。

もう一人の先生との出会い
しかし、最初はボロボロの酷評

途方に暮れましたでしょう

でも、あっと思ったのです。そうだ、『書輪』の先生がいる。調べてみると、近くに住んでいらっしゃる。當麻寺・宗胤院(そいにん)の住職の宮下寛昇先生といって、ローマ法皇パウロ2世にお会いし、ヴァチカン宮殿、サン・ピエトロ寺院で個展をされた高名な方でした。いきなり、「見てください、ご評価下さい」とお訪ねしました。

自慢ではありませんが、学生時代は金賞しかとっていない。「すぐプロになれる」と褒められると思っていた。ところが、ボロボロの酷評。「書体が定まっていない」「字が忙しい」「ずっと攻めている」「すぐに飽きがくる」などなど・・・。

でも、「君はおもしろそうだからうちにおいでよ」と仰っていただき、その場で弟子入りしました。啓水先生の基礎と寛昇先生の理論。一から勉強し直しました。そのころはまだ会社で働いていましたから、仕事が終わって夜な夜な書の鍛錬を積みました。懸命に練習する私の姿勢を次第にご評価くださり、寛昇先生は丁寧に、詳しく、情熱的にご指導下さりました。

最初は売ろうとか、大きな仕事をしようとかいう気はありませんでした。どちらかというと人に喜んでもらおう、ですね。各地で個展を開催したり、ホームページを立ち上げたり、インスタやフェースブックなどで発表していきました。投稿を続けているうちにフォロワーが7700人になった。3500人を過ぎると、問い合わせが来ます。

そんなとき、当時仕事で担当していたパン店の社長が「そうや、君、字が書けるよね。うちの社名を書いて」と依頼してくださいました。それを書いたのが、最初の仕事でした。そして、店内の目立つ所に飾ってくれた。遠慮したのに5000円くれた。ごっつう、うれしかったですね。長い間神棚に飾っていました。

そして、2016年に依頼されてJRA有馬記念のロゴを書きます。結局、会社を辞めて書一本になるのは、書道家を志してから18年後でした。