対談企画「未来に向けてチャレンジを続ける若宮正子さん!」

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対談企画「未来に向けてチャレンジを続ける若宮正子さん!」(上)

【対談企画】
未来に向けてチャレンジを続ける若宮正子さん!
若宮正子さん(マーチャン)から人生を楽しむコツを教えてもらおう!

“若宮正子さん”と聞いてピンとこなくても、テレビCMで、
「とにかくバッターボックスに立ってバットを振ってみようと思ったんです。そしたら当たっちゃったんですよ」
と語る彼女を見かけた方は多いのではないでしょうか。
そう、80才を過ぎてプログラミングを始めて、81才でスマホ用ゲームアプリ「hinadan(ひな壇)」を作った方なのです。

この度、若宮正子さん(通称マーチャン)と弊協会代表理事の増田成衛が対談する機会を得ました。
マーチャンの人生をなぞりながら、充実した人生をおくるコツを考えてみます。
シニアの皆さんにも、シニアでない皆さんにも、参考になるはずです。

若宮正子さんの略歴と現在

略歴

  • 1935年4月19日生
  • 高校卒業後、三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)に定年まで勤務
  • 58歳からパソコンを独学で習得
  • 2017年 ゲームアプリ「hinadan」を公開。これにより米国アップル社CEOよりWWDCに特別招待された
  • 2017年より数々の政府主催会議の構成員を勤める
  • 2018年 国連社会開発委員会のイベントで講演
  • 2020年 国連人口基金のイベントで講演
  • 2021年 台湾政府デジタル担当の政務委員(IT担当大臣)
         オードリータンさんとのトークショーを行った。

現在

一般社団法人メロウ倶楽部 理事
熱中小学校教諭(一般社団法人熱中学園)
NPOブロードバンドスクール協会 理事

岸田首相主催・デジタル田園都市国家構想実現会議構成員
デジタル庁デジタル社会構想会議構成員
総務省デジタル活用支援アドバイザリーボード構成員

エクセルアートの創始者でもある。

著書

「老いてこそデジタルを。」「独学のススメ」他

Chapter0:マーチャンのプロフィール

過去の著作やインタビュー記事などから、今年88才になるマーチャンの経歴を振り返ってみます。

マーチャンの人生のポイント1

女性が働く環境が今ほど整っていなかった時代に、マーチャンは大手銀行で管理職になり、
定年まで勤め上げています。

紙幣を数えるのが苦手で、当初、仕事では落ちこぼれだったという若宮さん。しかし、デジタル化が進み、評価のポイントが企画力や提案力になってきたことで、頭角を現すようになったそうです。男女雇用機会均等法が施行されると、試験の結果が好成績だったこともあり、管理職に。定年時は関連会社の副部長にまでなったのです。

マーチャンの人生のポイント2

マーチャンは58歳でパソコンを買ったのを機に、現在の「 一般社団法人メロウ俱楽部」の前身「パソコン通信メロウフォーラム」へ入会。現在は「一般社団法人メロウ倶楽部」の理事を務めています。

若宮さんが本格的にパソコンに取り組み始めたのは定年後。お母さまの介護で人と会う機会が減ることを懸念して、ネット上のコミュニティに参加し、人脈を広げていきます。それにとどまらず、ご自分でHPを立ち上げたり、エクセルやパワーポイントを正式に学ばずつまみ食いをしつつ、シニアの方々にパソコンを教えたりしていました。また、シニアがエクセルを学ぶハードルが高いことから、エクセルアートを考案し、一人で楽しんでいます。

マーチャンの人生のポイント3

マーチャンは、シニア向けのゲームアプリの開発を思い立ち、80才過ぎてからプログラミングを学び始めました。
そして、81才で「 hinadan(ひな壇)」をリリースしました。

スマホ用ゲームアプリがシニアには使いにくいことに着目。シニアが楽しめて、操作がしやすいアプリを開発するために、プログラミングから学び始めました。周りの方々に、教えてもらいながら、手伝ってもらいながら、「hinadan(ひな壇)」を完成させています。その実績で、2017年WWDCに紹介され、アップル社のCEOティム・クック氏から“世界最高齢のアプリ開発者”と紹介されました。

銀行員時代から、新しいこと、面白ことを思い立っては、実現させていっているマーチャン。
そして、年齢をものともせず、新たな学びにもチャレンジしています。

Chapter1:マーチャンの原体験

マーチャンのベースにはどのような体験があるのでしょうか。まず、そこからお聞きしてみました。

協会 増田

銀行時代から現在に至るまで、一貫して好奇心にあふれ、躊躇せず飛び込む若宮さんですが、そのルーツはどこにあるのでしょうか?

若宮さん

私は、ごく普通のサラリーマン家庭で育ちました。

子ども時代は、今のウクライナのような状況の中で過ごしてきました。なまじっか学校でいろいろ言われるようなこともなく、放っておかれたのが良かったのかもしれません。

物心ついた時には戦争でした。「欲しがりません、勝つまでは」というような時代で、国がギスギスしていました。大人は子どもを飢えさせないように、死なせないようにということに必死でした。個々人がどうのこうのと取り上げられる余裕がなく、必死で生きていた時代でした。

ある意味で、いい時代に育ったと思います。焼野原からスタートし、これ以上悪くなることがなかったので、やけに明るかったのです。

その後に高度成長期がくるわけで、今より良かったかもしれません。

混沌とした時代の面白さもありました。

戦時下では教育どころではなかったのですが、終戦後に6・3制が導入され、中学まで義務教育化されました。新制中学の先生は人手が足りなくて、旧植⺠地から引き揚げてこられた学者のような方が先生になったりしました。錚々たるメンバーが先生で、文部省(当時)によるカリキュラムも整っておらず、自由な授業をやっていました。ですから、中学時代の授業はとても面白かったのです。サンフランシスコ講和条約の締結後はつまらなくなっていったのですが(笑)。

高校時代を過ごした東京教育大学付属高校は、やりたいことをやるというような自由な校風でした。友だちにも恵まれていました。いろいろなことをやって面白かったことを覚えています。

協会 増田

幼少期のことで、何か印象に残っていることはありますか。

若宮さん

戦時下では、親に育てられているという感覚がありませんでした。学童疎開で親と離れていても、特に寂しいと思わなかったです。当時はものすごい食糧不足で飢餓感を味わっていましたので、おにぎりの⽅が恋しいくらいでした。

焼夷弾が降ってきても、怖いという感覚もなく、死ぬということの意味もわかっていませんでした。

終戦後、小学校の5、6年生のころ、父親が私だけを連れて、映画館に行ったことがありました。映画を観ているときに、父親が私を膝にのせて「もう離さない」というふうに抱きしめました。学童疎開で子どもを手放して寂しかったのだと思います。今思うと父親の心情が理解できるのですが・・・・

戦争中は、皆な感情を押し殺して暮らしていたのだと思います。

協会 増田

終戦当時は、どのように過ごされていたのですか。

若宮さん

小学校4年生の時に、兵庫県で終戦を迎えました。父親の会社が会社ごと兵庫県の生野銀山に疎開しました。疎開先の近くに、捕虜収容所がありました。終戦を境に、捕虜だった人たちがパシッとした服装をし、ピカピカの靴を履いているのを目の当たりにしました。

一日で世の中が変わるということを経験しました。すべてがひっくり返ったのです。

協会 増田

玉音放送は聞かれましたか。

若宮さん

その日は夏休みで、豊岡市の親戚の家に遊びに行っていました。たまたまその日の朝、駅に「正午にラジオで重大放送があるので聞くように」という掲示が出ているのを見かけました。そのことを伯父に話すと、伯父は冷静に「戦争に負けたということを放送するのだろう。」と言っていました。

玉音放送の時、天皇陛下のお声は泣き声だったので「これはいいことではないのだな。」ということはわかりました。それで、急遽、家に帰ることになったのですが、そんな時でも汽車は普通に動いていました。家に帰ると、母は「戦争はどちらが勝ったの?」と言っていましたし、父は「戦争が終わった。」と言っていました。当時は終戦と言っても、敗戦とは言わなかったのです。

8月20日は、学校の登校日でしたが、壇上に上がった教頭先生は10分間くらい黙っておられました。それまで「鬼畜米英」と教えておられたわけですから、何も言えなくなったのだと思います。

アメリカの占領下で、アメリカ式の教育思想が持ち込まれました。それまでの教科書の内容のうち、戦後の思想に反するところは墨で塗りつぶすように指示されました。また、父母会はPTAと呼ばれるようになりました。

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