40代でIT系エンジニアから小説家に転身した阿川大樹さん。小説家として死ねれば本望(笑)

1954年生まれの阿川大樹さんは、子どものころから虫や星など“理科”が好きで、興味の赴くままに、東京大学教養学部基礎科学科に進学。在学中から野田秀樹さんとともに『劇研』、『夢の遊眠社』で活動するも、大学卒業後、1979年から日本電気(NEC)にエンジニアとして入社。1987年にアスキーに転職し、1991年には米国カリフォルニア州で半導体ベンチャー企業の設立に参加。その後、1996年に会社を辞め、1997年に小説家の道へ。

エンジニアから小説家へと大きく転身した背景には、どのような思いがあったのでしょうか。阿川さんのこれまでの歩みを辿りながら、人生のシフトチェンジについて考えてみます。

南極に行ってみたいという思いから、大学では理系を選択

これまでの経歴を拝見すると、とても多才な印象を受けます。その根幹にはどのような興味や関心があったのでしょうか。

理科は子どものころからずっと好きでした。星が輝いてるのはなんでだろうとか、殺虫剤をかけると虫が死ぬのはなんでだろうとか、不思議なことがたくさんあって、そういうことを解き明かしていくのを面白いと感じていました。

南極にも行ってみたいと思っていて、当時南極に行くには観測隊に入るしかなく、「大学で地球物理学科に進めば入れるかな」と考えていました。結局、希望通りにはいかなかったのですが、理科はすべて面白いと感じていたので、基礎科学科に進みました。

大学時代は、演劇の活動もしていましたよね。

高校時代の演劇部に、前衛的な芝居をやる尖った先輩がいて、それがすごく面白かったんです。役者として出ていましたが、演劇はやり切った感があって、高校まででいいかなと思っていたんです。

東大に入ってみたら、当時は劇団がいっぱいあって、やっぱりやろうかなと思い直して入ったのが東大劇研(東京大学演劇研究会)でした。僕の1年後に野田秀樹が入ってきて、のちに東大劇研を母体として『夢の遊眠社』を結成しました。

立ち上げた当初の『夢の遊眠社』は、学生劇団だったのですが、2週連続公演をして口コミで観客を増やしたり、演劇評論家を招いたりと、マーケティングや広告宣伝活動に力を入れたんです。観客が増えて、劇団としての知名度が上がると、VAN99(VANが運営していたホール)や西武劇場から声が掛かるようになり、プロの劇団へと踏み出していったんです。

演劇の道へと進もうという気持ちはなかったんですか。

実はセリフを覚えるのがすごく苦手なんです(笑)。はじめのころは、役者もやりましたが、セリフを忘れてしまって迷惑をかけたこともあります。音楽も好きだったので、劇中歌やBGMを作って、舞台の横でギターや三味線を演奏したりしていました。1979年の渋谷パルコ裏テントでの公演が最後で、翌日が日本電気(NEC)の入社式でした。

ちなみに、キャンディーズを辞めた伊藤蘭さんが『夢の遊眠社』の舞台に初出演した際に歌った曲は、僕が作曲したんです。この話は宴会ネタとして結構ウケます(笑)。

なんとなく入社した日本電気(NEC)、でも仕事は面白かった

大学卒業後は、日本電気(NEC)に入社していますね。

ほんとうは大学院に進もうと考えていたのですが、落ちてしまって。就職するつもりがなかったので、どこの会社がいいのかもわからず、残っていた推薦枠をじゃんけんで決めたら日本電気(NEC)になったんです(笑)。

でも、理科なら何でも面白いと思っていたので、当たり外れはないだろうとも思っていました。半導体開発を担当することになったのですが、ちょうど日本の半導体産業が伸びていく時期と重なり、すごく面白かったんです。

でも、日本電気(NEC)を辞めてしまったんですね。

それまで演劇とか音楽とか暗い部屋の中で活動することが多かったんです(笑)。でも、「これからは太陽の下で明るく生きよう!」と思って、仲間とディンギー(小型ヨット)を買ったんです。いずれは泊まって遠くまで行けるようなクルーザーを買いたいと思っていたのですが、体力の限界まで残業をしても給料が安くて、ヨットを買うどころじゃなかったんです。

それで、日本電気(NEC)には8年在籍し、アスキーに転職しました。

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